四畳、賽の河原にて
幼い頃過ごした町は、いつしか寂れてもの悲しげな雰囲気を纏うようになっていた。
幼稚園の遠足で行った公園、そこまでの道。当時はワクワクやドキドキで世界が色付いて見えていたが、この歳になるとそういった感覚もなく道端の雑草も枯れた黄土色ばかり目に付くようになっていた。
一体自分の何が変わったのだろうか。
たぶん根っこはまだ変わっていないんだと思う。ただ...ちょっと"世界"を知りすぎたのかな。
子どもが夢想していた「楽しい世界」なんてほんとは無くて、おとなたちが子どもに「楽しくない世界」を隠していただけだったんだろう。
高校に入学したあたりから人のいい部分じゃなくて汚い部分ばかり目につくようになっていった。どんな人間も汚い。もちろん自分も含めてだ。
「他人の悪い部分ではなくいい部分を見てあげましょう」
小中高どの教師も言っていた。出来ることは出来るけど「いい部分」が「悪い部分」を帳消しに出来るかと言えばそうでもない。
希望を持っている状態で絶望を味わわせられるよりも最初から希望なんて持たなきゃいいのだ。
人間が不完全なものであることには肯定するくせに「穢い存在である」ことは否定する。都合のいいことには目をつぶっているのは一体どっちなのだろう。
「自分は違う」そう思うのは正しい。こんな訳の分からない文章に触発されるヤツらの方がイカれているのだ。
京都タワーを臨む四畳一間のアパートで駄文を綴りながら死にたいと毎日思っている。