ソドムinジャパニーズオニ
アブラハムは近寄って言った、
「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、
その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。
正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。
全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。主は言われた、
「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、
その人々のためにその所をすべてゆるそう」(創世記より)
最近ひっきりなしに考えてしまうことの一つ。
「正しいってなんなんですか?」
ハーバード白熱教室で見た、マイケル・サンデルの「Justice」も買って読みました。
結局「中立性を保つためには相互的尊重が云々」と言っていました。
でもそれは知識がある人が論争をする時の話で、日常生活での正しさとはまた違ってくると思うんですよね。
「自分は自分が一番正しいと思ってる」
その一言で手出し口出しできなくなってしまいます。
「自分が一番正しい」のどこに相互的尊重があるのでしょう?どう考えてもないですよね。
だから日常生活に共通善なんて生まれないという話。話し合って理解し合えるなら今言ったことは全部空言になるんですけどね、そうもいかないよね。
そうそう「正しさ」と言えば、誰もが思い浮かべる勧善懲悪。その代表とも言える童話『桃太郎』。
村人から物を奪い人々に害を為している鬼を桃から生まれた桃太郎がやっつけてお宝を持って帰るお話。
「鬼」という存在は悪として描かれますから「物を奪う」という行為は鬼たちにとっては至極当然の行為でしょう。
むしろ「物を奪うこと」で存在を確立しています。
その行為に苦しんでいる村人を助けるために桃太郎が鬼を退治しに行くわけなんですが、鬼側からすれば村に居なかったよくわからない人間が動物を連れて自分たちの領土に攻め込んできて自分たちをこてんぱんにするわけです(ものによっては殺害)。
これは私たちが人間だからと桃太郎を全面的に肯定してよいのでしょうか?
「倒すべき悪」として定義付けられたのなら何をされても仕方がないのでしょうか?
ソドムの街にこの鬼たちが住んでいたとしたら滅ぼされるのでしょうか?
それとも神は慈悲を与えるのでしょうか?
まあたとえ人間だろうが鬼だろうが関係なく神は滅ぼすのでしょうけど