不道徳教育の義務化

集合知と我

死の恐怖

「死」について、お話します‥‥。死っていうのはね‥‥。

 

 

 

 

死を恐れるって一体何なのだろう。

生まれて此方一度もそう思ったことがない。

死は怖いものなのか。本能的恐怖なのか。

 

宗教によくある死後の世界、輪廻転生、魂の救済、アセンション‥‥これらは人間が作り上げた死の恐怖に対するシステムだ。

死んだら生まれ変われる。天国でより良い暮らしができる。

 

しかし実際、そんなことはない。

息絶えた時点で意識は消滅し、火葬場で焼かれた時点で肉体は原子に還る。

そこにあるのは"無"、いや無すらも無いのかもしれない。

実は真っ暗でもないのかもしれない。黒は光が届いてない色、人間の感覚上の色彩だから。

 

死って怖いものなんだろうか。

 

まず人間以外で考えてみたい。

犬とか猫ってボールを追いかけていって車に轢かれそうになったりすると身を翻すよね。

それが恐怖なんじゃないか?と思ったけどこのブログ

https://gamp.ameblo.jp/life-elevation/entry-11782347066.html

を読んで違いそうだなって結論になった。

たぶん飼い主が銃を向けていても動物は普段通り近寄ってくる。

それは銃を知らないからかもしれないけれど、たとえ知らなくても自分の方に銃口が向いている状況は怖いだろう。

ウイルスに対する恐怖も無いだろう。そもそも病気なんて知らないんだから。

なので例えどれだけ知能が発達していても(例えば6歳児並みの知能持つと言われているイルカでも)死の概念は発達しないように思われる。

 

自分が感じる恐怖が何なのかを具体的に探究しないと死の概念は生まれないのかもしれない。まだわからない

 

 

では次は人間がなぜ死を恐れるのかを思いつくままに書いてみる。間違っていることが多いかもしれないが御容赦。

 

調べが甘すぎるかもしれないけれど死の概念は既に古代ギリシアの哲学者:エピクロスの時にはあった。

だいたい同じ時期の前3世紀にはマウリヤ朝で仏典結集があったので、たぶんそれくらいの時代から始まっていると思う。違うと思う。

 

"死の探求"もしくは"生の意義"は哲学の最重要題材だ。

なぜ人は死ぬのか、なんのために生まれてくるのかを大真面目に2000年以上もの間考え続けている。

 

その考えは一部が礎となり神秘主義的な思想と混ざりあって宗教となる。

 

人間はものを書き残すことが出来る。

そのためには事象を言葉にしないといけない。

自分のうちに巣食う情動をそれっぽい言葉にしないといけない。

そうする内に死というものが生の終わりにあるとわかった。

恐怖という感情があるとわかった。

 

書き残すことで後世もその事実を知ることになる。

それを乗り越えるために死後の世界やらなんやらを作る。

エピクロスは快楽主義を唱えた。

幸福を得るために心の平穏を保ち続けることで死の恐怖から逃れられると言った。

でもそれは長い長い間支持されることはなく人々は宗教に縋り着いた。

 

宗教は自分が信じることで即時救いを与えてくれる言わばインスタント救済だから。

魂の救済が最終段階かと思いきや縋った時点でインスタントな幸福は約束されている。

 

死への恐怖は人間の本能である。なんて言う人がいるかもしれない。

僕はそうは思わない。もし人間が文字を生み出すことも自分で自分たちを知ろうとすることもなければそんなもの生まれなかっただろう。

 

死への恐怖というものは人間が人間として、他の生物と袂を分かつ高次の存在であるからこそ生まれるものなのだ。

 

それを言葉にしてはならない。文字に書いてもならない。死は全てを蝕んでいく。

 

 

 

 

 

別に死は怖いものでもなんでもないよ。

それに至るまでには時間がかかるかもしれないけれど受け入れることができると人生とても楽になる。

 

 

以上、妄想日記でした。